『教会の一致』        使徒行伝 2:1〜4/40〜47

 主イエスの十字架後、弟子たちはバラバラになりました。しかし彼らは、主イエスの「父の約束を待っているがよい」(1:4)の命令を守り、120名の者たちと共にエルサレムのある二階座敷に集まり、父の約束である聖霊を心を合わせて祈りつつ待ち望んでいました。すると10日目にして聖霊降臨という不思議な現象が起こり、今までバラバラであった弟子たちが1つにまとめられ、群が形成され、聖霊によって教会が誕生しました。
 ところで、今日のテキストには「一」という語と、その語と同じニュアンスの語が何度も出て来ます。それらは、「一緒、一同、ひとりびとり、みんなの者、みな一緒、共有、一つ、共に」です。今日はペンテコステです。その聖霊によって誕生したばかりの教会には一致が生まれました。今日は「教会の一致」というタイトルで、どのような一致があったかについて見てみましょう。

T.信仰の一致
 人が集まる教会には様々な人が出入りし、一致が難しくなります。しかし聖霊によって、「一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をし」(42)、「そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでを」(46)していました。これは「信仰の一致」です。教会において、この点が曇るとやがてギクシャクしてきます。しかし信仰の一致があるならば、互いの信仰によって乗り越えることが可能になります。その信仰は、主イエスが私たちの罪の身代わりとなって十字架上で死に、三日目に蘇らされたことを信じるだけではありません。さらに、今なお全ての面において生きて働き、最善に導いておられることを信じて一致する信仰です。

U.心の一致
 エルサレム教会は、「日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし」(46,47)ていました。これは「心の一致」です。彼らは、信仰だけではなく、心をも1つにしていたので、信仰と同時に心の問題も共有していました。私たちも、人の心の痛みや悲しみを、自分の痛み、悲しみとして共有して一致したいものです。

 エルサレム教会には、貧しい人が数多くいたようです。そのような教会であっても、「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与え」(44,45)ました。今は福祉が行き届き、いっさいの物を共有し、必要に応じて分け与えることはありませんが、「分に応じて献げる」ことは今も昔も変わりません。ここに、貧しい教会にも拘わらず、麗しい教会の姿を見ることが出来ます。信仰だけが一致していても、心だけが一致していても、こうはいきません。私たちの教会も聖霊を求めて、信仰だけでも、心だけでもなく、その両面において一致し、「救われる者が仲間に加わる」(47)ところの麗しい教会を目指してゆきましょう。

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